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心理学部
2015.01.23

人文学部心理学科リレーエッセイ NO.05

ワンシーン・ワンショット

サスペンス映画の巨匠A.ヒッチコック監督の『ロープ』(1948年)という作品がある。この映画はながらく全編80分丸ごと「ワンシーン・ワンショット」すなわちノーカットで撮られた作品と思いこまれてきたが、常識的に考えてもそんなことはありえないはずであった。
というのも普通のフィルム・マガジンにはせいぜい10~15分の映写時間分のフィルムしか収納できないからだ。ところが現代ロシア映画を代表するA.ソクーロフ監督作品『エルミタージュ幻想』(2002年)では、HDのおかげで全編99分の「ワンシーン・ワンショット」の撮影が可能となった。
ワンシーン・ワンショット

そもそも「ワンシーン・ワンショット」という撮影技法の特徴はどこにあるのだろうか。たとえば、監督作品としては『アンストッパブル』(2010年)が遺作となったトニー・スコットのようなめまぐるしいカット割りによる編集とはどこが違うのか。

まず「カット・バック」、「モンタージュ」という技法を用いると、ある画面の次にどのような画面をつなげるかは基本的に監督の「自由」である。つまり物語性などを無視すればどのような画面をつなげてもよい。

これに対して「ワンシーン・ワンショット」の場合はどうだろう。雪玉の中にカメラを入れて放り投げる、というアベル・ガンスの例などがつとにあり、あるいはカメラを遠隔操作すればやはり何でも撮れそうだが、かりに撮影監督なりが被写体を直接ファインダーでのぞきこんで自分の手でカメラを操作する、という条件をつけたらどうか。

すると「ワンシーン・ワンショット」で撮るということは撮影者の身体行為能力の範囲内に限定されたものになるはずだ。クレーンなどを使用せず、またカメラを放り投げない限り、突然画面が上昇することはありえない。

ところで先の『エルミタージュ幻想』にもどると、映画の終わり近くの部分に、大舞踏会の、踊る人々、伴奏するオーケストラの構成員の間を縫ってカメラが流麗に移動する場面がある。実際にそんなことをすれば、ほぼ間違いなく、他人と衝突するだろう。するとここに表現されているのは、われわれの身体行為の「夢のような」実現なのではないだろうか。はたしてエンディングにも信じられない身体行為の実現が待っている。

片桐茂博(哲学)