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心理学部
2020.05.25

Social Distanceといわれて

新型コロナの猛威の前に、「100年に1度の危機(試練?)」と地球規模の災厄関連の報道が続く。それは人類にとって特別の事柄であり、「戦争といってもよい」と称されている。私は、今年の流行語大賞の筆頭にSocial Distanceが躍り出るのではと思いつつ、その語が持つ意味の多義性ゆえにもたらされる、何らかの、しかし重大な社会変化の予兆と予感に揺れている。

Social Distance(以後SDと略す)は、気軽に「両手を横に広げて相手に触れない程度の距離」との説明を受けるが、そのような物理的な距離感ではなく、不確かなこと(あるいは耳元でささやいて初めて意味をなすような発語)を口ごもっていては声が伝わらない微妙な距離感覚の有無が問題だ。手も握らずに愛をささやくというのもいささか不自然。同様に貧しさに絶望して自己主張も忘れかけている人の小さな声をかき消してしまいかねない空間と環境はありやなしや。何よりおしゃべりや相談といった行為が封殺され、相互行為の不在と忖度が目立つようになる。

SDは、Personal Distanceとも了解すべきだろう。コロナは教育現場にオンライン授業を導き、私語も感動の余韻もデリートするが、他面スキンシップという肌感覚を伴った直接コミュニケーションの機会も奪っていることに敏感であってもよい。匂いも香りも伝わらないdisplayで調理実習の授業を受けるのとおなじような歯がゆさだ。伝えるべき教育内容の大筋においてそれほど違いはなくとも、かすかに、そしてわずかに残るpersonalなものの消失に思いをはせておこう。

実はSDもPDもほぼ同じものをさしているというのが本来の秩序ある社会のありようだと思う。

Socialとは人がそれぞれ抱く観念の連合体をさす。一言でいえば「共感と連帯」の思いが連なった状態をさす。にもかかわらず現実はその「共感と連帯」への扉を閉ざし、医療でいうトリアージュのように、誰から切るか・どこまで救うかなどの「線引き」に汲々とする議論に変質していってしまう。そこまで言わなくても、人と人との関係が心の通わぬあたかも機械や物の羅列状態のように扱われるような感覚をぬぐいされない。それはsocialではない。同時にpersonalでもない。これをSocialといわなければならないのはなぜなのか。

「社会」という言葉は、明治の初期にSocietyの訳語として日本語の仲間入りをした。それまでは福沢諭吉が「仲間」という訳を当ててきた。本来の温かく思いやりのある語として導入されたのに、いつの間にか冷たく厳しささえ引きずる裃のような響きをもつに至っている。昨年流行った“one team”こそが本来の「社会」の語彙に近い。都市を訳語とするギリシャ語のpolisももともと誰一人の落後者も出さない”one team”(=inclusion)を意味する。

PDは、今はやりの「3密」でいえば、寄りそい励ましあう「濃密な」人間関係を表現するのに似つかわしい。ならば、もはやclose to me!と囁けないようなPDがSDに変化しているのかもしれない。幅広く豊かだった人々のPDが次第に狭まり、SDよりも小さく、しかも密度を失ってきているとみることで説明できる事柄があるような気もする。 若者や一部の高齢者の間で広がり続ける「ひきこもり」。自らのストライドが小さすぎるPDの持ち主には、あえてSDにのっとって行動する必要も機会もない。

何だかおまじないか呪文のような言葉を並べてみたが、論題に駆け上がったSDの真意は、私たちがどの程度「小さな何気ない行いでも大きな共同のための事業につなぐ」想像力を働かせ、ストライドの大きな発想の呼び水の役割をはたすところにあった。

SDは意図せざる結果をもたらすプログラムを動かしている。児童相談所や市役所・区役所などでの「公正」と「平等」を旨とした人間関係の調整(たとえば措置)にタッチしながら、各種優遇措置や特例措置を忍ばせることで政策的バランスを保っている。しかし、その等間隔に設定したつもりのSDでも届かない距離感が私たちの人間関係、とりわけエモーショナルな共感関係を育む空間をあえて自滅させ、いってみれば自己完結型のパーソナリティーを増殖してはいまいか。対人関係における喜怒哀楽の生育源から肌感覚が抜き去られ、他者への共感を疎んじるメンタリティーにオーラさえ感じてしまう『孤独な群衆』の時代が本格化するのだろうか。他者を説得する言語が苦手で、自分を擁護するためのパロールで武装したコミュニケーション行為が目立つようになるというべきか。「互いに傷つき傷つけられ」る人間の成長モデルが「褒められないと対話に参加できない」限定モデルへとやせ細るのではないだろうか。もちろんこの変化の行き着く先は「ひきこもり」賛歌ということになる。

SDは「ひきこもり」への引き金とならないか。「経済か健康か」といった政策の重要ファクターにとらわれるのではなく、それらを受け止める地盤・基盤の活性化(言ってみればPDの共有と蓄積)に注意を促している。
 

宮本 益治 (社会学・福祉心理学・老年文化論)