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心理学部
2023.07.04

「イメージ」について

 

「イメージ」(image)という語は、もともとラテン語の”imago”(=英語のcopy)由来の語だが、たとえば古代ギリシアの哲学者プラトンによれば、「真・善・美」そのものである「イデア」の「コピー」が自然の事物、そのまた「コピー」すなわち「コピーのコピー」が芸術作品ということになる。そして芸術作品を生み出すのが人間の「想像力」であった(ちなみに自然の事物は「イデア」をモデルにデミウルゴスという神が製作する)。つまり「真・善・美」をとらえる「理性」(場合によっては世界全体の「理性」ということにもなるが、さしあたり人間の能力)からみれば、その「真似」の「真似」、二番煎じ、三番煎じ、つまりは本物に対して偽物、まがい物を生み出す下位の劣った能力が「想像力」であった。
 キリスト教の教義によれば「人間」=”imago Dei”(神の似姿)ということになるが、ここでも「本物」=「神」に対して「コピー」=「人間」という一種の上下関係は変わらない(ちなみにこの定式化はいわゆる「偶像崇拝の禁止」に抵触するのではないかという疑いが生ずるかもしれないが、神がご自分に似せて人間をつくるのはよいが、人間が自分に似せて神の「像」をつくることは禁止されるわけだ)。そしてこの教義のもとでも「想像力」は「理性」より劣った、卑しい能力ということになる。
 しかし近代になると、たとえばドイツの哲学者カントの場合、事情は複雑になる。すなわち、一方で、知覚を「再現する能力」としての「想像力」(「二番煎じの能力」?)という伝統的な位置づけが残存するが、他方で、「想像力」(ドイツ語では”Imagination”というよりも”Einbildungskraft”と表記されるもの、「構想力」と訳されたりする)が「知覚」そのものの成り立ちに関わる能力として重視されるようになる。その場合、「想像力」は過去の経験から類似性を見出す能力であるだけでなく、現在ならびに将来の経験を可能にする「枠組み」を創り出す能力でもある。近代以降、文学や芸術の分野で新しい「作品」を「創造」する能力として「想像力」が脚光を浴びることになる事情と何か関連があるかもしれない。
 実はこの時、例の「本物」-「コピー」の関係にもある重大な変化が生ずる。たとえばカントよりも少し年上の、同じくドイツの哲学者バウムガルテンは、「近代美学」(esthetics、いわゆる「美容」の「エステ」と同じギリシア語由来の語で、もともとは「感覚」という意味)の創設者として有名だが、その主張によると、「美」の基準は「客観的なイデア」ではなく、「主観的なもの」(人間が何を美しいと感ずるか)にあることになる。そして「芸術的創造」とは、「イデア」を「真似る」(コピーを製作する)ことではなく、「内面的なもの」(人間が美しいと感じたもの)を「表現」(expression=ex[外へ]+press[押し出す]ion)することだされる。「客観性」から「主観性」へのまさに「コペルニクス的転回」(「天動説」から「地動説」への転換という意味になぞらえて、カントが自分の認識論上の業績を自賛したときの表現)である。
 だがしかし、それでも「本物」(オリジナル)-「偽物」(コピー)という序列関係は残存している。そして「内面的なもの」こそが「本物」「真実」であり、「作品」はその「コピー」にすぎないという思いが払拭されない。鑑賞者は「作品」を通じてオリジナルへどれだけ接近できるかが重視される。しかしこの関係自体が問いに付されるのが「現代芸術」であるという。たとえばフランスの哲学者ボードリヤールは「シミュラークル」(「模像」、英語の”simulate”と同じラテン語由来、cf.『象徴交換と死』ちくま学芸文庫)という語で、「本物」も「コピー」も表し、ということは根源的な「本物」は存在せず、すべてが「イメージ」だと言うことに等しく、いわゆる「本物」-「コピー」関係は、「シミュラークル」の二次的な区別によるものでしかないことになる。AIの発達によりVR(仮想現実)やAR(拡張現実)がもてはやされる現在、我々はまさに「シミュラークル」の氾濫のただ中にいるのかもしれない。

片桐 茂博(哲学)