感度ゼロの世界
この夏、コロナを拾った。迂闊だった。以前、風疹の抗体量が二桁多いと医者に驚愕され、自分の免疫系を少々過信していたかも知れない。39度近い高熱と節々の痛みがしばらく続き、しかしこの時点では「インフルエンザもこんな感じだったな」とタカをくくっていた。そして3日目の朝、コーヒーを淹れていてなんとなく違和感を覚えた・・・香ってこない。鼻水や鼻詰まりで嗅覚が鈍感になった経験は前にもあったが、今回はちょっと違う。鼻の通りなどは平時よりむしろ良いのに、それでいてまったく匂いを感じない。香辛料や洗濯用柔軟剤、カビ取り漂白剤等の匂いがきつそうなものを片端から嗅いでみたが、いずれも同じ。極めつきは、ネコがトイレをしても完全無臭なのだ!(この驚きネコ飼いの方には共感いただけると思う。)感度ゼロ。新型コロナウイルス感染にともなう嗅覚障害である。
新型コロナウイルスが嗅覚障害をひきおこすメカニズムについては、全容は解明されていないが、おおむね次のように言われている。われわれヒトの嗅覚系は、匂い分子を受容する嗅細胞が存在する嗅上皮、嗅細胞の投射先となる嗅球、嗅球の投射先となる嗅皮質からなる。嗅上皮は鼻腔一番奥の上側にある10平方センチほどの領域で、鼻から入ってきたり喉から上がってきたりした空気中の匂い分子は、ここで嗅細胞先端の嗅覚受容体(嗅繊毛)と結合する。嗅繊毛が受け取った匂い分子の情報は、電気信号に変換されて頭蓋内に伝わり、嗅球でまとめられたのちに脳中心部の嗅皮質(嗅覚野)に送られ匂いとして知覚される。このうち新型コロナウイルスが直接影響を及ぼすのは、嗅覚系の入口にあたる嗅上皮と考えられている。嗅上皮は、匂い信号を伝達する嗅細胞と、それを支え栄養補給や代謝を行う支持細胞ならびに基底細胞で構成されている。新型コロナウイルスは主に支持細胞や基底細胞に感染し、その結果アポトーシス(計画的細胞死)が生じて嗅上皮が部分的に脱落し、嗅細胞が正常に機能しなくなる。
東原和成「あなたの知らない『匂い』の力」 情報・知識&オピニオンimidasより
こう書くとなんだか絶望的な心持ちになるが、幸いなことに嗅細胞はヒトの感覚器官としては珍しく定期的にターンオーバー(入れ替わり)するということなので、深刻に考えず自然回復を待つことにした。日常生活への影響はさほどでもない。もともと接近・回避に関わる刺激を検知した時にアラートを発する嗅覚システムは、バックグラウンドで密かに起動しているのが常で、たとえ嗅覚を失ってもそれが意識にのぼる機会はごく稀なようだ。視覚や聴覚だったらこうはいかないなと思っているうちに自主隔離期間が過ぎ、久しぶりに地下鉄に乗車した時のこと。満席で隣客との距離も近く、暑くて人いきれのする車内環境はなかなか厳しいものがあったのだが、ふと気づくと思いのほか穏やかな気分の自分がいた。理由はすぐに思い当たった。匂いがしないからだ。目に映る光景や耳に届く喧噪は変わらないのに、そこから匂いを除いただけでこれほどまで気分が変わるとは驚きである。嗅覚野に到達した匂いの信号は、海馬や扁桃体といった大脳辺縁系にも投射され、記憶や情動を呼び覚ましながら、最終的に大脳新皮質に属する眼窩前頭野で意識化される。ちょっとした匂いが心にさざ波を立て、ネガティブな感情や不快な認知を生じさせていたのだと思い知った。だが一方で、匂いがもたらすポジティブな感情というのも当然あり、嗅覚を失うということはそのいずれも喪失することを意味する。仏教で言う煩悩の元となる器官(六根:眼・耳・鼻・舌・身・意)の1つが断たれた世界は、極めて安寧で静謐である。居心地は悪くはない。しかし、日常の小さな幸せ・不幸せを捨て去ってまでその境地に居続けたいかと問われると、やはりそこは微妙だと思った。
嗅覚消失を自覚してちょうど2週間経過した夜、口元に持って行ったグラスから、かすかだが、はつらつとして少し青く、懐かしさを覚える刺激を感じた。これは・・・レモンの香りだ。その瞬間をなんと表現すればよいのだろう。脳にかかった薄いベールが外れたと言うか、景色がワントーン鮮やかになったと言うか。その後は、徐々にではあるがさまざまな匂いを少しずつ感知できるようになり、1ヶ月を過ぎる頃ほぼ元通りに回復した。嗅細胞のターンオーバーの周期が約1ヶ月であることからも、納得のいくところである。それと同時に、鼻先をかすめる色々な匂い分子が、心をささくれ立たせたり掻き乱したりする日々も帰ってきた。もちろん、そんな煩悩にまみれた日々も今は嫌いではない。朝のコーヒーや赤ワインの香らない生活が、なんとも味気ないことを知ったからだ。
参考文献
上羽瑠美 (2021). 「新型コロナウイルス感染症と嗅覚障害」. 『日本鼻科学会会誌』. 60, 1, pp. 59-60.
岸本めぐみ, 浦田真次, 近藤健二, 山岨達也 (2022). 「Covidによる嗅覚低下のメカニズムと生理」. 『におい・かおり環境学会誌』. 53, 2, pp. 141-146.
兒玉隆之 (2020). 「『匂い』を脳波から捉える」. 『感性工学』. 18, 4, pp. 181-186.
村井綾 (2022). 「嗅覚再生をめざして」. 『日本耳鼻咽喉科学会会報』. 125, 6, pp. 949-952.
浄土宗 (2018). 「六根・六境・六識」. 『新纂浄土宗大辞典』
<https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/六根・六境・六識> .
