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心理学部
2025.05.27

疾走する女王


 2020年は現代史に特筆される年だ。験良く並んだ数字の下,華やかに東京五輪を楽しむはずの2020は,新型コロナウイルスが暗く塗りつぶしていった。前年の暮れに中国武漢から発生したCOVID-19がもたらす感染症によって,社会の様々な機能が急変更,急減速,そしてしばしば完全停止を余儀なくされたのだ。
 
 軽い感染対策程度ですむだろうといった当初の楽観的な雰囲気は日が進むにつれて消え去った。感染力が強く,しかも一部の人々にきわめて重篤な症状をもたらすことが明らかになって,世界は緊張感に包まれた。治療法の模索,ワクチン開発,医療体勢の再構築など,感染症自体への必死の対策にとどまらず,人々が集まって交流する事態そのものを避けなければならなくなった。集会,会食,イベント,コンサート,そして対面授業が休止に追い込まれた。社会の機能をどう調整してこの新たな病原体との戦いを継続していくのか,難しく重い課題が一気にのしかかった。
 
 急ピッチでワクチンが開発された後も,人々はこの戦いが想像以上にやっかいなことを思い知らされた。ウイルスは容易に変異するのだ。科学者は,DNA分析によってウイルスの構造を追跡した。最初のワクチンが開発され,続いて接種が進んだ後に,人々は,ウイルスが次々と変わって「進化」していく様を,トップランナーの背中を追う疲れ切った第二走者のように,刻一刻と見せつけられることになった。
 

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 ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」の中で,アリスが赤の女王と一緒に走り出すシーンがある。しかし,いくら走っても周りの景色は変わらない。女王はアリスに,ここでは同じ場所にとどまるには走り続けなければならないのだ,と告げる。
 
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 有性生殖,すなわちオスとメスの2つの性によって次世代の個体を作る繁殖方法が進化した理由を説明する理論のひとつに,「赤の女王」仮説がある。有性生殖では,子を作るには原則的に他個体と配偶しなければならない。これは,ウイルスやアメーバのように性なしで増殖できるシステムに較べて,明らかに効率が悪い。なぜこのように非効率な仕組みが生き残ってきたのか。赤の女王仮説では,雌雄の遺伝子を混ぜ合わせて親と異なる子を作り出すこと自体が有性生殖の本質的な利点と考える。
 
 寄生虫,病原菌,ウイルスなどは,まとめてパラサイト(寄生者)と呼ばれる。彼らの「進化」は速い。われわれヒトが生まれて次の世代を生み出すまでの世代時間がおおよそ25年とすると,COVID-19は10時間程度(複製サイクル時間)と推定されている。
 世代交代が速ければ,遺伝子のコピーミスなどによって素早く身体の構造が変わっていく。COVID-19は,主要なものに限っても約2年でアルファからオミクロンまで13ほどの株を生み出した(WHOによるギリシア文字ラベル単位)。これらは少しずつ異なる特徴をもち,ある株に有効なワクチンはしばしば別の株には効きにくい。
 一方,彼らから見れば,われわれを含む大型動物の進化はあまりに遅く,特定のパラサイトを完全に防ぐ身体が進化するには絶望的に時間がかかる。彼らが進化のジェット戦闘機であるなら,われらは三輪車を漕ぐ子供のようだ。
 この速度差の中,さまざまなパラサイト達は,次々と変わり続けてわれわれの身体への侵入を試みる。ここでもし,われわれ全員が同じような身体の組成であったら,どれかの個体に侵入できる仕組みをいったん進化させたパラサイトは,そのままほとんどの個体に取りつくことができてしまう。パラサイトが病原体であれば,感染の大爆発が起こる。病気の致死率が高ければ,種が全滅してしまうかもしれない。そこで,寄生される側の生物には,同種であっても互いに異なる個体となる必要が生じた。有性生殖によって雌雄の遺伝子を混ぜ合わせれば,親子を含めてほとんどの個体の遺伝子組成は違うパターンをもつことになる。すべてが少しずつ違う個体であれば,特定のパラサイトが進化させた侵入手段が通用しない個体が必ずいるだろう。
 
 性があることによって,生き物は遺伝的に親と異なる個体になって変わり続ける。つまり,パラサイト達との進化的な競争があるために,必死に変わり続けなければならない。変わり続けなければ,とどまることすらできない。これが,「赤の女王」が象徴する,生物たちの置かれた状況である。
 
 変わり続ける。そのために多くの動物は性という仕組みを維持しているらしい。そして,性があるということは,自分の繁殖に他者が決定的に関わるということだ。そこでは,パートナーを探し,より良いパートナーを選び選ばれ,最終的な配偶までもっていかなければならない。これは,たいへんな手間がかかるひどく面倒な手続きを宿命的に背負い込んだことを意味する。高い知性と高度な言語,洗練された文化をもつ人間においては,これらを実現するための複雑な社会的認知や社会制度,そして対人感情が生じる。
 
 かけがえのない愛,結婚の祝福,次世代の誕生。性をめぐる甘美なものは,疾走する女王の華麗なレガリアである。
 
河野和明(進化心理学・感情心理学)
 
 

・有性生殖が存続する理由の説明として赤の女王仮説は有力な理論ですが,他にも複数の理論があります。たとえば,有性生殖の利点について,有害な突然変異の除去作用を強調する理論,DNAの修復作用を強調する理論,有利な変異の組み替えによる適応度の向上を強調する理論などです。
・赤の女王仮説を含め,実証的な研究では,これらの仮説を支持するものと否定するものとの両方が存在します。現在は,諸仮説の統合が試みられています。
・もともとの赤の女王仮説は,主に種間の軍拡競争などを念頭に生物が変わり続ける必要性を説明したものです。
 
参考文献
Katella, K. (2023). Omicron, Delta, Alpha, and More: What To Know About the Coronavirus Variants.; https://www.yalemedicine.org/news/covid-19-variants-of-concern-omicron?utm_source=chatgpt.com  2025年5月16日検索
マイケル・ブリックス 楡井浩一訳 (2010). 「まだ科学で解けない13の謎」草思社.
マット・リドレー 長谷川真理子訳 (1995).「赤の女王 性とヒトの進化」翔泳社.
増田道明 (2021). 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の変異. モダンメディア, 67, 23-30.
ルイス・キャロル 河合祥一郎訳 (2010).「鏡の国のアリス」角川文庫.
東京都健康安全研究センター (2025). 世界の新型コロナウイルス変異株流行状況; https://www.tmiph.metro.tokyo.lg.jp/lb_virus/worldmutation/   2025年5月16日検索
Van Valen, L. (1973). A new evolutionary law. Evolutionary Theory, 1, 1-30.