トイレの臨床心理学

先日、南インドを旅してきました。べルール、ハレービード、バーダーミ、パッタダカル、ハンピなどの町を訪れました。私にとってインドは3回目であり、海外旅行も数十回目になりますが、今回ほど、辺鄙なところに来てしまったという気持ちになったのは初めてでした。そう感じた理由は2つあります。
一つは、日本人が珍しかったのか、地元の人から握手を求められ、一緒に写真を撮ってほしいと言われることが続いたことです。はじめは、知らない人と写真を撮ることに抵抗があり、SNSで拡散されることも気になり断っていましたが、断ると知らないうちに写真を撮られ、追いかけまわされ、疲れ果てました。しかしそのうちに、数十人の家族写真に入ってほしいとか、年老いた母と記念に写真を撮ってほしいと頼まれるようになると、今度は人情で断りにくくもなり、最後は地元の女の子たちに肩を組まれて写真をとるほどになっていました。すべての人がスマホを持ち(もちろん写真撮影はすべてスマホで。インドの若い子たちも日本の若者と同じように自撮りが上手!)、博物館では日本円で100円ほどの入場料の現金払いが認められず、QR決済でしか入場できないIT化の進んだインドで、生の日本人はそんなに価値が高いのか???と驚きました。
もう一つは公衆トイレの様子です。私たちが思う一般的な公衆トイレというのは、個室が基本です。しかし、今回、個室とともに、個室の手前の洗面台があるエリアに便器がいくつか並んでいるという公衆トイレに出会いました(想像するのは難しいかもしれません。さすがに写真を撮っておらず、お見せできず残念です)。手を洗ったり化粧直しをしたりする空間に、ただただ便器がいくつか並んでいる、という不思議な光景です。個室ではなく複数の便器が並んでいる公衆トイレに出会ったのは今回が初めてではありません。昔、中国の田舎でも出会ったことがあります。それでも中国では、隣の便器との間に腰の高さほどの壁がありました(前には扉はありませんが)。用を足しながら、隣の人の顔を見ながら話ができる、というわけです。そのタイプと比べても、今回のインドのトイレはあまりにも解放感にあふれていました。
たしか、10年ほど前の前回のインド旅行の際、公衆トイレの洗面台の前で、便座も何もない普通の床で、公衆の面前で用を足している女性に出会い、ギョッとしたことがありましたが、他の人はあまり気にもとめておらず、掃除の係の人も黙って水を流していました。インドでは、人前で用を足すことがそれほど特別なことではないのかもしれないと思いました。
さて、このようなインドから帰国して一番に感じるのは、日本のトイレの快適さです。安心して籠れる個室、キレイな便座、シャワーや乾燥の機能に加え、最近のトイレは自動で便蓋の上げ下げをし、さらに音や消臭、自動水洗で排泄に伴う不快さを消してくれます。また、便器が自分で便器の掃除までしてくれる、そんな機能までついています。まさに至れり尽くせりです。しかしこのような快適なトイレに関して、興味深い指摘をしている人たちがいます。少し前のものですが、京都大学の研究チームの「トイレ空間にみる現代の意識」という論文を紹介します。
この論文では、“現代のトイレ”の分析を通して、現代を生きる人々の意識のあり方を考察しています。快適さを追求したトイレの現状は、「トイレの非トイレ化」とも言うことができ、現代において排泄を通して自身を意識する契機が失われつつあることを示唆しているというのです。
排泄は、自分で自分の身体を扱う最初の行為であり、人の発達過程において、トイレトレーニングを行う時期は自律性の獲得が課題であるとも言われます。しかし最新のトイレでは、究極には、便座に座って用を足す以外の排泄に伴う行為は何もしなくてよいことになり(受動的に身を任せるだけ)、尻拭いはもちろんのこと、振り返ることさえ必要なくなる、と彼らは指摘します。さらに、排泄の音や臭いは自分が感じるだけでなく、それが他者に伝わる恥ずかしさによって、自分自身を意識する契機となりますが、様々な機能がついた最新のトイレでは、その心理的契機から遠ざかるのではないかとも。
自分自身を意識する機会は大事です。でも、トイレの快適さは手放せません。
さあどうする?
たかがトイレ。されどトイレ。
トイレの臨床心理学に興味がある方は、ぜひご一読を。
高嶋 雄介・畑中 千紘・井上 嘉孝・古川 裕之(2012).トイレ空間にみる現代の意識 箱庭療法学研究,25(2),13-24.
