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心理学部
2015.03.05

人文学部心理学科リレーエッセイ NO.07

コミュニケーションは曖昧?

人間のコミュニケーションには、言葉を使うものと使わないものとがある。私は論理学および言語哲学を専門とする者として言葉(記号)を使うコミュニケーションに興味がある。

言葉(ここでは書き言葉をおもに取り上げる)には少なくとも形と意味という2つの側面が存在する。形については、それほど曖昧さは生じない。しかし、意味については、曖昧、あるいは、ファジーな点が多い。

例えば、接続詞「または」(英語では"or")は論理学的には次の2つの意味をもつ:今、"A"、"B"をそれぞれ何らかの命題(命題とは、「富士山は日本で一番高い山である」のように、真か偽かを問える文のこと)を表すとする。
このとき・・・
コミュニケーションは曖昧?

1.命題「AまたはB」が真であるのは、Aが真であるか、または、Bが真であるか、あるいは、AもBもともに真であるかのいずれかのときである。例えば、「父は今日買い物に行くか、または、映画を見に行く。」のような命題は、父が今日買い物に行けば真なる命題となるし、また、映画を見に行っても真なる命題になる。さらに今日の午前中に買い物に行き、午後に映画を見に行っても、つまり、買い物に行くことと映画を見るという2つのことを今日一日のうちにしても真になる。

2.命題「AまたはB」が真であるのは、AまたはBのどちらか一方のみが真であるときで、それ以外のときは真でない(もっと言えば、そもそもA、Bがともに真であったり、あるいは、ともに真でない、つまり、ともに偽であったりすることはない)。例えば、「彼の身長は175cmかまたは176cmである。」のような命題は、彼が身長175cmであれば真となるし、あるいは、身長176cmであっても真となる。しかし、身長が175cmでもあり、176cmでもあるといことは物理的・計量的にはあり得ない。(もちろん、身長が175cmでもないし、176cmでもないということはあり得る。)

1の意味をもつ「または」を、「包含的論理和("inclusive or")」と言い、2の意味をもつ「または」を「排他的論理和("exclusive or")」という。ただ、私達は日常的に「または」という接続詞を1の意味で使うことと2の意味で使うことを、それぞれ「または1」、「または2」とか表記して、区別して使っているわけではない。ひとつ注意しておくと、数学では、「または」を通常、包含的論理和の意味で使っている。

以前、私がアメリカの大学で論理学を教えているとき、学生に、"or"をどちらの意味で使っていますかと質問したとき、7~8割の学生が"inclusive or"として使っていると答え、残りの学生が"exclusive or"として使っていると答えました。同じ質問を日本の大学でもしたところ、ほぼ同様の反応を得ました。「または("or")」という言葉の意味の理解については、洋の東西を問わず、同じということなのでしょう。

日常生活の中で、たとえば、「父は今日買い物に行くか、または、映画を見に行く。」という命題に接したとき、「または」を包含的論理和として理解するか、排他的論理和として理解するかにより、変な誤解が生じないことを願うばかりである。

青山広(論理学・言語哲学)