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心理学部
2019.09.02

「列車」と「映画」

1895年リュミエール兄弟により世界初の興行的映画上映が行われるが、その翌年、同兄弟により上映されたフィルム『ラ・シオタ駅への列車の到着』は、「列車」と「映画」とのまさに出会いであった。

その後多くの映画が採用することになる構図、画面右上から左下へと蒸気機関車に牽引された列車が到着し乗客が下車する様をとらえたわずか50秒ほどのシーンがワンショットで展開される。以後、『明日は来たらず』(レオ・マッケリー監督、1937年公開)、『終着駅』(ヴィットリオ・デ・シーカ、1953)など逆の運動すなわち画面左下から右上への列車後部の進行が人々の別れと映画のエンディングを示すことになる。『エデンより彼方に』(トッド・ヘインズ、2002)の場合は構成が少し複雑で、愛する男女の別れを描く以上、前二者ではまず両者の抱擁があってその後で列車の進行により別れが実現されるのに対して、この映画では別れる以前に男女が対面しておらず、まずヒロインが男性の背中を認め、これを追いかけつつ見失い、列車の進行方向に男性を追い越したかたちで両者が対面することになる。したがって列車の進行とともに当初は男女が接近し、その後で前二者同様残された者が列車を見送ることになる(ただし方向は画面右下から左上)。

これに対して、列車自体がいわば「主人公」となる映画、『アバランチエクスプレス』(マーク・ロブソン、1979)、『暴走機関車』(アンドレイ・コンチャロフスキー、1985)、『アンストッパブル』(トニー・スコット、2010)などでは、列車の停止が映画の終わりとなる。ただし『暴走機関車』では主人公とディーゼル機関車の末路は直接描写されず、『アバランチエクスプレス』では列車停止後、船舶による新たな追跡劇が追加されている。
列車内で活劇が展開される『間諜最後の日』(アルフレッド・ヒッチコック、1936)では列車は爆弾で破壊されるがこれを停止とみることもできるだろう。『高い標的』(アンソニー・マン、1951)、『ベルリン特急』(ジャック・ターナー、1951)では列車の到着と事件の円満解決がほぼ重なる。列車の機関手が主人公の場合、『鉄路の白薔薇』(アベル・ガンス、1923)では機関手が自ら蒸気機関車を破壊した後、小型のケーブルカーとなって機関車はいわば「復活」し、『獣人』(ジャン・ルノワール、1938)では蒸気機関車の破壊を企図するが失敗した機関手が自死してもなお機関車は走り続け、同じエミール・ゾラの作品を原作としながらハッピー・エンドで終わる『仕組まれた罠』(フリッツ・ラング 1954)ではディーゼル機関車が走り続けて映画が終わる。
世界初の西部劇『大列車強盗』(エドウィン・S・ポーター、1903)は原題に`train`の語を含みながら列車は活写されていないのに比して(ポーターには遊園地の子供用小型蒸気機関車が登場する『小さな列車強盗』(1905)という作品もあるが)、『キートンの大列車追跡』(バスター・キートン、1926)はまさに蒸気機関車が「主人公」の映画である。

1896年以来、映画の画面上を走り続けた列車は、走行と停止を始めとする様々な運動を見せてくれたが、すでに『ラ・シオタ駅への列車の到着』における列車の運動がそれらを凝縮しているのではないだろうか。


片桐 茂博(哲学、映画研究)